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●KHK標準歯車の誕生と拡大

昭和二十六年、現在の仲町、本社工場に鉄骨工場を建設。旋盤用チェンジ・ギヤのほかにKHK標準歯車の製品化を計画。
特に三十年から第一次五ヶ年計画を立て、本社工場内に新工場の建設準備にとりかかる。
さらに三十五年からの第二次三ヵ年計画で、合理化計画の一環として、一億五千万円の設備投資を行う。同業他社に先駆けて新鋭歯切設備をつぎつぎと導入、また三十九年には大型ホブ盤などを購入、生産、受注体制の強化をすすめていった。
この間、旋盤用D・P平歯車のほかに「KHK標準歯車」として、平歯車、カサ歯車、ウォーム・ホイールを製品化。市場に送り出すとともに代理店販売制度を三十七年に敷き、全国的な販売ルートを確立していった。
稲田巧氏は「はじめはKHK標準歯車といっても、取扱店の人たちがピンと来ず説明するのにずいぶん時間が掛かりました。私は営業担当として焦りました。先代の社長は、一旦任せたら部下をトコトン信頼する人でした。それだけに社長の持論であった、大企業、中小企業の仕事各三分の一、自社製品三分の一という営業方針を一日も早く築きあげたかった。KHK標準歯車が本当に市場に浸透していったのは昭和三十二年以降からです。
販売店さんからの信頼を受け、平歯車、カサ歯車、ウォーム・ホイール以外に種類も増えていきました。
製品開発の方法は、いろいろ注文を受ける品物の中から市場の動向を探り、どんな製品をユーザーが欲しているか調査、研究。その中からあれこれ検討を加え、これなら自信をもっていけるという製品を市場に流してゆきました。その発想の原点はあくまでチェンジ・ギヤの着想からでした」と語っている。また、米原秀晃氏(小原歯車工業㈱製造部次長)は「昭和三十二年、私が入社した頃は、設備もまだ中古品が主体でした。KHK標準歯車が市場に浸透すると共に、次第に新しい機械、精度の良い設備が整ってきました。
唐津製作所のギヤシェーパ、日本機械の二十六インチホブ盤、樫藤鉄工のKR600など、今ではたいしたものではないが、当時としては大変な設備でした。
先代の社長は”自分が責任を持つ”と言って、とにかく前向きの姿勢で新しい設備の導入を計りました。設備の導入は、常に最高のものを入れる。それがメーカーとしての”信頼性”を高めるという考えがうまれ、今日のグリーソン社の”コニフレックス№104””ハイポイドジェネレーター№108”そして、マーグ社の ”SD32X”やライスハウエル社の”NZA研削盤”の導入等、世界最高級の設備を入れる元になっています」と製造担当者として先代社長の当時の英断を語っている。
つぎつぎと取り組んだ生産設備の充実とKHK標準歯車の開発―――。小原歯車工業は専門メーカーとして次第にその地位をゆるぎないものとしていった。
●戦後の歯車業界
ここで戦後の歯車業界と小原歯車工業との関連を富蔵自身が記した記録(昭和四十一年四月発行・埼玉県指定標準工場の社長が語る『我が社の中期五ヵ年計画』より)より振り返ってみよう。
小原歯車工業が歯車専門メーカーとしてゆるぎない躍進をなぜなしえたか――― その一端を知るためである。
歯車には、特に大企業はない。従ってすべてが中小企業となるが形態から
①歯車加工のみを主体として生産している
②変速機、減速機を主体として生産している
③全ての材料から完成部品として一貫して加工している
以上の三つに分かれる
小原歯車工業の場合①の項にある。
つまり歯切加工を主体としているため一般産業の下請加工メーカーである。このため経済変動によって受注量が増減する。
小原歯車工業の場合は三十三年頃からの鍋底景気、岩戸景気、高原景気によって生産高が伸び経営資本が増加した。しかし、本来が受注産業である。
そのため生産計画は、短期はもとより、長期の展望がなかなか難しい。
先代社長・小原富蔵が経営者として優れていた点は、チェンジ・ギヤーのアイデア、それを生かしたKHK標準歯車の開発と同時に、生産調整のたてにくい歯車業界で、着実に時代の流れを読み取り、生産と設備投資をコントロールした点であった。
すなわち、三十九年に仲町工場が完成、第三次計画も立てたが、実際にこれは中断した。過剰の設備投資のため、他人資本が増大し、自己資本率が極めて低下したからだった。
歯車は形状、用途、材質などによって分類されるように、加工方法が異なり、設備機械の種類も多い。このため設備資金が一般加工業にくらべ数倍かかる。それだけ操業度を上げなければいけない。しかも人手を多くしないよう高価な自動化設備が必要となり借入金の経営になる。
そこに企業体質の問題点があると考えたのである―――。
「多すぎる借入金は危険だ。企業の安定はあくまでも自己資本の充実である。最近、倒産が多いのは多額の借入金が引き金となっている」――― こうして目前にせまった第三次計画を中断した。
昭和三十四年~三十六年の小原歯車工業は自己資本率が二十二%となってしまった。富蔵は出来上がっていた設備導入計画をキャンセルし、せっかく出来た川口市錦町の三階建ビルを他人に貸すなどして他人資本の返済に努めた。
そして自己資本率を昭和四十年度には五十%と目標を定め、ついに四十九%にまでこぎつけた。自己資本が充実すれば不良手形、売掛金、未回収などの資金難も解消できる。借入金の多い会社はいわば半病人である。自己資本が充実していれば少々のことではビクともしない。
●独学で学んだ経営哲学

―――事実そのカンはズバリと当った。あのまま設備投資を続けていたら今日の小原歯車工業は存在しなかったかも知れない。
「事業家として先見性を持ち、経営者としては独学で経理の勉強をし、独特の経営哲学を身につけていた」と稲田巧氏ほか先代の社長を知るすべての人が異口同音に語るこの”信念”があってこそなしえたことではないだろうか。
逆井清直氏(現・埼玉県経営合理化協会の専務理事、埼玉県の商工行政一筋に三十二年間あたり、埼玉県の企業診断の草分け的な方)は「経営者としての小原さんは、合理化への意欲に燃え、前向きの姿勢で、しかも問題意識を持った人で経営に関してはとにかく熱心な人でした」と故人を偲んでいる。
特に独学で経営哲学を学んだ点について「当時、損益分析点経営、計数管理を考えて実行している経営者は川口では少なかった」と回想している。
ではその経営ビジョンとは一体どんな経営だったのか。昭和三十四年に発行した「こうすれば経営は黒字になる」(川口機械工業協同組合刊)の中からその要点を抜粋してみよう。
1.日本では大企業と中小企業の格差はますます開いている。たとえば賃金、大企業を100とすれば中小企業は60、零細企業は40にすぎない。 中小企業は数が多いこと。市場が狭いためどうしても過当競争となる。
単価と支払いは”あなたまかせ”になっている。結局、この場合、自分がしっかりしなければ誰も救ってくれないのだ。つまり「どうすれば黒字になるか」は 「どうすれば赤字を出さないか」につながる。
中小企業は大企業と違う。それだけに経営のやり方、考え方によって中身も
ぐっと違ってくる。

2. 企業は経営によってあげた利益を活用するところに発展がある。利益を伴わない企業はだんだん衰弱していくしかない。それだけに赤字経営の場合は、なぜ赤字になるのか、その病根を取り除かないことには黒字にならない。経営とは、”生きもの”であり、時には”水もの”である。いろいろなケースをその都度、適切な判断と有効な処置によって解決する以外に方法はない。ここに経営者の腕のふるいどころがある。

3. 赤字の出る理由は簡単だ。収益より費用が多ければ赤字。収益が少々、上まわっても破算する場合がある。
たとえば十万円の利益に対して、考えもなく百万円、二百万円と競争意識に燃えて設備投資すれば金詰まりをおこす。借入をすればよいが計画性があるか、よほど長期でないとダメだ。破算した企業を見ると十倍、二十倍の負債がある。
これほど関係者にとって迷惑千万、本当に社会悪といいたい。私は常に第一に破算すまい。赤字を出すまい。”儲け”のソロバンをはじく。
それでも赤字があるのなら、人を減らすか、企業を縮少するしかない。
また、収益-費用=利益(または損益)になるのであるから一定期間を通じて常に利益をもたらすべく努力しなければならない。

4. これに対して新しい経営意識としては(収益)-(利益)=費用という考えを持たなければならない。これはある月の予想収益金をまず決めておき、さらに天引き的に利益を想定して差し引き、これで費用を計算しておくことである。
これを実行すれば何にいくらかかるか細部計画が出来ると共に、支出も管理できるのだ。経営とはまさしく「入るを計って出ずるを制す」である。
ここでいう利益とは株主、従業員、顧客の三者のうち、いずれのひとつでも犠牲にしない利益でなければならない。つまり先を見越して合理化、工夫、改善をキチンと行うことが経営者としてもっとも大切なことである。
 以上が富蔵が自身で開発した要旨であるが、さらに持論として力説した点は「利益の限界と損益分析点」「生産性向上」の二点であった。
利益の限界と損益分析点とは、毎月の売上を設定、その中から可能にして最大という想定利益を算出。そこから、固定費と変動費を差し引いて採算点に達しているかどうかを計数的に管理する。
一方、生産性の向上とは生産高/投資額にて分母(投資)が少なく、分子(生産)が多ければ生産性がよいことである。生産性の向上にとって大切なのは、工場の近代化、合理化と同時に労使が一体となって「良く安く早く」を念頭に品質の向上、コストの引下げ、消費者へのサービスを行うかである。
物をつくるには設備がいる、少ない設備で多くの生産を生み出すことが生産性の高いことである。
測定を算出する方法としては書物も数多く出ているが、要は実行に移す事である。
実行とは『勇気と努力』であるがなにも難しく考える必要はない。一番手近な所から実行に移せばよいのである。例えば、家庭において服を脱いだら一定の所へかけておき、いつでもすぐ着られるように、工場でいえば工具を使用したら元の所に置いておく。要は少ない労力で最大の効果をあげることで企業の大小は問題ではない。
さあ、明日とはいわず今日から実行しようと結んでいる。
―――それから約二十年の歳月が流れた。理論としても鋭い説得力を持ち、しかも着眼点を持っている。
特に中小企業という己の立場を考え、自己の体験を基に考え方をまとめた点がいかにも先代社長・小原富蔵の経営哲学なのである。
経営者にとって自己の信念は、やはり”人生”そのものなのだ。設備投資に対しては厳として過剰を禁じている。 そういえば富蔵自身四歳の時から破産、親子離散という苦しい体験を味わっている。
破産は社会的罪悪…といい切ったあたりには切実な思い、願いがあったのだ。また、利益をあげるためにはまず「入るを計って出ずるを制す」が要と語っているが、これまた身を持って得た独特の金銭感覚がにじみ出ている。堅実に、誠意をこめた経営でなければならないところが、小原富蔵の世界なのである。
●仕事、人、川口を愛したその生涯

ここに富蔵に対して送られた表彰状、感謝状の一覧表がある。
それは昭和二十五年から四十一年の十六年間に二十四の多きを数える。また、その内容も交通安全への貢献(二十五年川口市交通安全協会)、PTA会長の功績(三十二年川口工業高校々長)、川口陸橋の建設(三十四年川口市長)「緑十字銀章」(三十九年全日本交通安全協会長)、中小企業振興(三十九年埼玉県知事)、「勲五等瑞宝章」(内閣総理大臣)などさまざまな範囲にわたっている。
富蔵をもっともよく知る人として小原金雄氏は「精力的な努力家でした。経営者として優れていたのは先見の明があったこと。自分の体験に照らして、すべての面で厳しい人でしたが、苦労しているだけに優しさや思いやりもあった人でした」と回想している。
同じく稲田巧氏は「厳しい反面、愛情のある人でした。社長は、数字に明るく、よくこれからの見通しなどを話し合い社長は私をかわいがってくれました。実のオヤジみたいに感じていますよ…」としみじみと語り「とにかく社長として常に先をみていましたね。現在のこの本社工場を作ったことが、KHK標準歯車の販売と同時に、今日の発展の基礎となっているし、そうした構想を持っていたからこそ野田工場の土地を入手した。公害、環境問題がさけばれる以前のことだったからなおさらです…」と語っている。
米原秀晃氏は「まだ三十歳にもならない若い技術屋に設備のことやこれからのことを話してくれました。一人で寮生活していた時なども一緒にメシを食べに行こうと、気をつかってもらいました。本当に愛情こまやかな人でした」と語ってくれた。
柳川利勝、水野昇、和室次男の各氏とも「ガンコな社長でしたが、従業員思いの社長でした」とそれぞれ思いを語ってくれた。
小泉政雄氏(埼玉機械工業㈱社長)は「技術屋であっても、自分で経理の勉強をする。常に先に先にいく人でした。また人に物を教える場合にも偉ぶることは一切さけ、”自分の体験からいくとこうなんだ”と説明する人でした。だから非常にわかりやすくてみんな参考になったと思う。歴代の理事長の中でもその指導力は優れた人だった」と語っている。
逆井清直氏は「いまでも鮮明に覚えているのは”迷想の部屋”へ案内された時のことです。この部屋は経営上のことを一人になってじっと考える部屋。こんな部屋に案内されたのははじめてなのでビックリしました。ただ考えているのではなく、じっくり考えてからズバリ実行する人でした。例えばマーグ(スイス製の形削盤)を購入する時でも、この機械を買えばどんな効果があって、どれだけ設備が近代化するかをよく研究してから買い入れるのですね。また、それを導入すれば歯車の専門メーカーとしてどれだけ技術力が上がり、競争力もつくかをちゃんと見通していた人でした。
経営者に求められる一番大切なことは設備、経理、営業とすべてのバランスを見ながら判断をくだすこと。そのカンどころが企業を運営する際に度外視してはならないので、この点の”カン”も見事に持ち合わせた人でした」と企業診断の専門家らしい人物評を語っている。
富蔵の経営理念、特に企業との関連についてはどんな考えを持っていたのか―――。
昭和三十四年発表した『企業と人間』(前出・川口機械工業協同組合刊)という小冊子からその要点をひろってみよう。考え方の一端を知ることができる。
1.企業は資本金と少数、または多数の人間から構成されている。企業はそこに働く人の生活を守るために賃金を支払い、そこに働く従業員は、その仕事を通じて社会のために働いている。それだけに企業は公的なものといえる。

2. 企業を構成する人は経営者、資本家、従業員に三分できる。しかし、資本と経営者は一体なので、三者であるべきが二体となっている。 しかし、型式が株式会社なるが故に利益処分をして株主に配当し、利益準備金積立をしている。そこで混同しがちなのは、同族会社の場合であるが、資本と経営がひとつであるために経営者自身の利益であると思う人が多い。
しかし、ここで考えなければならないのは企業が儲けた金は、あくまで企業のために使われるべきであり、経営者自身のために使われたとすれば使われた金額だけ、その企業は細くなり、発展が遅れる。
要するに企業会計と個人会計は絶対、別にすべきである。いかに小企業であっても企業は公であり、経営は個人であり、それを混同すべきでない。

3. 企業もひとつの団体であって、経営者、従業員は企業全体をよくするようにと考えるべきである。企業は生産性の向上、合理化、科学的経営などに常に心がけ、それに応じて従業員の賃金を引き上げ、消費者サービスをすれば正当な利益を得る。つぎに従業員の性格なり、考え方を是正し合う。この場合、あくまで企業全体を対照とした考え方、批評でなければならない。逆に個人を先にして考えたり、批評したりするとそこに感情がからみ、とかく個人的悪口に終ってしまう。
同業者の組合もよくまとまれば、数々の長所がある。たとえば金融がやり易くなる。経済の情報を集めて組合員に提供することが出来る。あるいは組合員の企業を診断して組合員全体の企業体質を改善して近代化を計ることができる。他地域の産業、外国産業にも打ち勝つ体質を持つことが出来る。
しかし、何よりも大切なことは他人はどうでもいい、自分の企業さえよくなればいいという意識を捨てることである。
これもすでに約二十年前に書かれた文章である。今日の厳しい経済環境の中で、実に示唆に富んだ思考である。それはまた、富蔵がいかに仕事を愛し、人を愛し、川口を愛していたかのゆるぎない証拠である。

小原歯車工業株式会社の創業者・小原富蔵は昭和四十一年七月二十六日、零時五十四分、肝硬変で静かに不帰の客となった。享年五十九歳。まだ働き盛り惜しみある人生であった。戒名は”栄雲院敬祥富岳機縁居士”―――。
告別式は八月二日。小原歯車工業株式会社、川口市交通安全協会、川口機械工業協同組合の合同葬儀としてとりおこなわれた。
当日は真夏の八月。くもり空の蒸し暑い日だった。道路には断り切れずに飾られた大花輪、その下に悲しみの別れの参列者たちが列をなした。午前十時五人の僧侶の読経とともにしめやかに始まった。葬儀委員長の大野市長、栗原県知事、大泉川口商工会議所会頭、KHK標準歯車代理店会長落合次郎社長、永瀬鋳物工業協同組合理事長、岩井川口機械工業共同組合副理事長をはじめ二十数人の人たちよりの弔辞。
機械業界、産業界、取引関係、町会、友人、全従業員と静かに続く焼香の列。遺影の近くには、あたかもその胸につけられたように「勲五等瑞宝章」が置かれていた。

●地域社会に果たした功績

富蔵の半生は歯車と共に生きた人生であったが、同時に数多くの公職、役職を歴任、地域と人々に尽くした半生でもあった。
富蔵が最初に就任した役職は、太平洋戦争のまっただなか、昭和十七年六月に就任した埼玉県南部機器加工修理工業組合(機械組合の前身・川口機械工業協同組合の改称名)の理事である。
戦後、事業再開の見通しがつくと二十二年三月、川口西部機械器具協同組合理事長に就任、二十五年には同組合を発展的に解散し、川口機械工業協同組合になると同組合の理事を三期重任し、三十二年五月に副理事長、二期重任ののちに三十六年二月、理事長に就任、同組合の発展に尽くした。
特に理事長在任中は多年の念願であった機械センターを三十八年十一月八日に完成させている。
理事長として富蔵について小泉政雄氏(埼玉機械工業株式会社・社長=六代組合理事長)は「先代の理事長は組合で、これからの企業は自分の会社を分析し、それを把握しなければならない。一番大切なのは原価計算だとその重要性をよく組合員に説得していました」と回想している。
また「理事長としては百点満点でした。たしかに経済的にも安定しているよい時代で、みな余裕があった時代ですが、中小企業の融資の問題など、先頭に立ってやってくれました。そして、組合員の会社をマメに見て歩いて、理事長という肩書きをはずして気軽に、自分の体験をに基づいた話をよくしていたことを覚えています」と語っている。
また富蔵は二十六年四月、川口市議会議員として初出馬して当選。その後、三期連続、十二年にわたって川口市政に参画し、高い識見と深い経験をもって市の発展と市民の福祉に寄与した。
特に三十四年四月から二年間、十三代目の副議長として議会運営の円滑化に尽くしている。
当時は工業の発展にともない、いろいろな問題が市政に打ち出されていた時であった。その一例としては西川口駅の設置、県道白子線川口陸橋の建設、川口駅西口の整備、治水対策など数々の範囲に及んでいる。
逆井清直氏は「議会に三期出て四期目に出馬を断念したのは実業者としてその道に徹するという小原さん自身の信念があったためだと思う」と語っている。政治に参画し、特に副議長の要職まで段階を昇りつめると、政治から身をひくのはどうしてもその時期を見失うものだが、このあたりのスパッとした割り引き方がまた見事である。
富蔵のモットーは、”知”(判断)”人”(奉仕)”勇”(実行)の三字である。
現実と将来を見極め、人間として幸福を得るために尽くし、機を見て実行する…まさしくこのモットーに基づく英断であった。
また、富蔵の数ある功績の中でも、最も特色があるのは、川口市交通安全協会副会長兼理事長として交通安全に尽くしたことである。
佐藤幹夫氏(山藤工業株式会社・社長)は「小原さんは川口市民の中でも最も交通安全には尽くした人だったと思う。自分が自動車が好きだったし、交通問題には全力で取り組んでいました。戦後、まだ交通安全がこんなに大きな社会問題になる以前にその重要性を着眼した人でした。そして戦前からの”貨物自動車組合””自家用自動車組合”を一本化し、昭和二十四年から初代会長として就任しました。以後は信号の設置も埼玉県で一番最初に働きかけた人、自費で安全器を設置したり、十日を交通安全デーと決めて旗をたてて市内を巡回したりした。たしか全日本交通安全協会より”緑十字銀章”をもらったはずですよ」としみじみと語ってくれた。
特に「現在のように市から助成金が出る時代とは違い、当時の交通安全協会は、みな手弁当のボランティア活動、だいぶ性格が変わってしまった」と語っている。
川口は工業の町。昔から車が多かったことは事実なのだが、まず安全を守ることが市の発展、市民一人一人の幸福につながることを見通し、自ら先頭に立って運動を推進した点にヒューマニストとしての面目が躍如している。
この点は機械工業組合の場合でも、真っ先に”給食センター”設立を提案、実行していることによくにじみ出ている。
このほか、別表にあるような数々の公職、役職をもち、真に地域社会の発展のために全力を投入した。
こうした活動により内閣総理大臣(佐藤栄作)より「勲五等瑞宝章」を受けたことをつけ加えておく。
●裏方として富蔵を守った妻・ふで

富蔵の妻・ふで。富蔵の人生は妻のふで抜きで語ることができない。それは小原家にとっても、小原歯車工業にとっても同じことが言える―――。
ふでは明治三十九年、入間郡富岡村で生まれた。富蔵とは昭和八年五月に結婚。男三人、女二人の五人の子供を育てた。
昭和十年に富蔵が独立して以来、常に陰になり日なたになって富蔵の仕事を終始助けた。創業時、借金の返済のために、富蔵と共に寝食を忘れて働き、今日の礎石をつくった。
戦後の混乱期も富蔵の仕事を助けながら五人の子供の養育。そして会社の成長と同時に増えていった富蔵の公職や役職、そのいずれの場合にもふでは裏方として富蔵の仕事を陰から支えた。
ここに昭和四十一年五月十四日付日刊工業新聞の連載物『内助の功』でふでを扱った記事があるので紹介しよう。
小原さんの身の回り一切の面倒を見るのはふで夫人の役目。真赤な車を駆って組合事務所へ埼玉県庁へと忙しく飛び回るご主人だけに夫人の気苦労もひとしお。
数年前は地元の婦人会などに顔を出していたが、最近はすっかり家庭にこもっており、小原さんが留守のときはお孫さんが相手。食事を共にするのもまれなので「まるで家族じゃないみたいです」とふで夫人はちょっぴりさびしそう。
しかし今でこそ家庭婦人におさまっているが創業時代は油にまみれて働いたという。「四尺旋盤一台で主人と二人ではじめたものです」と語る夫人の表情には苦難を共にしたご主人に対する信頼感と自信があふれている。小原さんは「点数をつけるなら五十点以上。それ以下ならとっくに別れているよ」とニヤニヤ。
年商二億円近くをあげる今日の小原歯車工業の基礎を作ったのは内助の功は動かすことの出来ない実績らしい。夫婦揃っての”ひのえうま”の五十九歳。「もう少し家族団らんの時間があればいいのですが」と、そればかりがふで夫人の悩みという。
ふで夫人を語るにふさわしい紹介記事である。
稲田巧氏は「たしかに下手な職人顔負けの腕を持った奥さんでした。またどんなに嫌な事があっても顔に出さない出来た人でした。」と語っている。
小原金雄氏は「働き者の奥さんで、とにかく労を惜しまない人でした。先代の社長が会社を一代で築き上げられたのも、たくさんの公職、役職をこなせてこられたのも内助の功が大である」と語っている。
そして、いまは嫁がれた長女の菊江さん、次女の勝代さんにお父さんの思い出を聞いた時、最後に言われた言葉は「たしかに父は立派でした。たくさんの仕事をしました。でも父がなした仕事の大半は、母の功績といってもいい。だって留守がちの父に代わって家庭の大黒柱として頑張ったんですもの…」と異口同音に強調された。その妻・ふでも昭和五十一年十月十七日その生涯を安らかに閉じた。
●父の思い出

小原誠治(次男)
自動車、カメラ、8ミリが好きで、いつも新しいものにめのなかった父でした。特に自動車が大好きで、年がら年中、新しい車に乗り換えて悦に入っていました。
そして、自分は機械屋で機械に詳しいくせに、ちょっとした故障でも自分では決して直そうとしない。ある時、途中で事故をおこした時なんか、途中で車を放り出して”おい、故障してしまった。置いてきちゃったから取りにいってくれ”といった具合の父でした。
こうした反面、非常に几帳面な父で、自分が会社をおこして以来の出来事をきちんと整理して、記録として残してある。しかも項目別にして分類して、自分のコメントも記してある。特に数字に対しては正確な父でした。私は現在、総務の仕事を担当していますが、父の残したデータをそっくり踏襲して、以後の記録づくりを行っています。父の域に一日も早く達したいと思っています。

小原昭治(三男)
私は子供の頃、体が弱かったらしく、父はそのことがだいぶ心配だったと聞いております。
子供の頃の思い出としては、父が兄たちの時代と違って、いろいろ仕事が多くなり、私が起きている時や食事の時は、ほとんど不在で顔を接することがありませんでした。
それから学校のPTAや運動会などで、必ず父がみんなの前で話をするもので、子供心になんか気恥ずかしい気持を持ったものでした。
仕事のことに関しては、常々、大企業相手の仕事、地域の中小企業相手のいわゆる賃加工で六十%、標準歯車を四十%の配分でいくのが一番良いと話していました。
父が居たときはだいたいこの比率で仕事をしていたのですが、現在はその逆になってしまった。標準歯車の種類も約千五百種類と増えて、父がいたらなんというかと思います。
父の意志を引き継いで、堅実に着実に会社を伸ばしていくことが、父に対する一番の花むけと思います。
小原恵子(現・社長夫人)
昭和三十六年頃、私がお嫁に来た頃、仲町工場と錦町工場に別れていましたので、父は毎日往復しておりました。
時折、仲町工場で夜遅くまで仕事をしていましたので、よく私の家で夜食を食べてくださり、いつも笑顔で”とてもおいしいよ”といって昔話をして下さいました。とても暖かい思いやるのある父で、私はとても好きでした。
高橋菊江(長女)
仕事一筋のファイトマンで努力家の父でした。私は五年間、父の仕事を手伝っていました。戸田さんの下で経理の仕事をしていたのです。それだけ、父と接する機会は兄弟の中で一番多かったと思います。
昭和三十九年頃、私が結婚する以前。父と一緒にお酒を飲みながら、家庭のこと、会社のこと、将来のことを夜遅くまで話していたら、母から”もう、いいかげんにしなさい”と叱られました。
また、父は「もうお前も年頃、もらい手がないのなら、赤札を背中にぶらさげて”結婚相手を探しています”と書いて川口の町を歩けよ」なんて、冗談を言われました。
気持や性格的な面で父によく似ているらしく、”お前が男なら”ともよく言われました。
結婚してからも主人の仕事が順調にいくか一番心配だったのではないかと思います。私は四十一年の三月に嫁ぎ、その四ヶ月後に父が他界してしまったものですから…。
今も生きていて、私たちの仕事ぶりを父に評価してもらいたかったとつくづく思います。
本橋勝代(次女)
父があぐらを組んでいる時、よく抱かれて頬ずりをされたことが記憶に残っています、ヒゲの濃い父で、とても痛かったものでした。
痛い思い出というともうひとつ、父はよくタバコを吸って、私をヒザに抱きながら、人と話をするのです。話に夢中になって、タバコの火が私についてヤケドをしとても熱かったです。その時の傷跡は今でも残っています。
私は一番下の子供でしかも女だったものですから、小学校二年生ぐらいまで父のヒザによく抱かれたり、父からはずいぶん甘やかされて大きくなりました。
私が物心がつき、大きくなってからは、ほとんど話す機会も、食事を一緒にする機会がないほど会社の仕事、組合の仕事で多忙な父でした。
本当に十三年がついこないだみたいな気がします。五十九歳の若さでこの世を去るなんて…。まだまだたくさんやり残した事があったかと思うと残念でなりません。
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KHKの歴史 - 歯車一筋
第23話  社長の思い出
交通安全運動に参加
写真でみるKHKの歴史 (NO23)
動画でみるKHKの歴史 (NO.23)
米原秀晃(製造部次長)
私は会社が飛躍をはじめた昭和三十二年の秋に入りました。そして、三十五年四月に結婚し、先代の社長に仲人をしてもらいました。昔気質のいい社長で、一対一になった時に思いやりのある人でした。
まだ、三十歳前の私に、大阪からよく来てくれたと、技術屋の一人として大切にしてもらいました。今でも覚えていることは、関西に出張に行った帰り、伊丹の空港でマツタケを買ってくれて、”おふくろさんに持っていけ”と言われたことです。
また、独身寮で生活していた時、日曜日に”米原君いるか、ちょっと話がしたい”とブラッと訪ねてこられ、会社の将来のこと、これからどんな機械を導入したらいいか、良い機械を入れて、一人で何台もの機械を担当し生産性を高めたいなど、社長の考えを聞かせてもらいました。
市会議員などの公職についていた社長だったので、社会的地位からにじみでた社会観を持っており、普通の鉄工所の社長とはひとあじ違った人でした。
柳川利勝(業務営業課長)
先代の社長は根が正直な人で奥歯に物がはさまったような言い方が嫌いで、ズバズバものを言う人でした。
でも、人情家で、特に従業員に対しては思いやりが人一倍あった社長でした。
たとえば当時、私は夜学に通っていました。修学旅行に行くのに小遺銭がない。五十円程前借を申し出たかったのだがなかなか切り出せないでいたんです。意を決して話すと意外と簡単に承認してくれて「身体に気をつけていってこい」と励まされました。あの時は嬉しかったです。
石井正男(営業課長)
普通社長というとデンと構えている人が多いと思います。しかし、先代の社長はナマイキ盛りの若い私たちの意見や、考え方を一生懸命理解しようと努力してくれました。功なり名をとげた人が、年齢的にも違う若い者の立場を知ろうとすることは大変な事だったと思います。
水野 昇(生産課係長)
私は昭和十六年、大東亜戦争のはじまったその日に小原歯車工所に入りました。まだ、徒弟制度のあった時代で、私は社長が独立して最初に育ててくれた弟子です。
戦争中だったので、社長も日の丸ハチマキで一緒になって現場で働き、同じカマの飯を食べました。
ガンコで一徹な社長でよく叱られました。しかし、あとに残る怒り方はしない人でした。形式ばることが嫌いで和気アイアイと仲間みたいな感じで仕事をしました。そうした風潮は現在でも引き継がれています。
会社がだんだん大きくなって、”社長”と呼ぶようになりましたが、私にとってはいつまでも“親方”という呼び方がピッタリする存在でした。
長井誠市(業務営業主任)
戦後二十年に十六歳で入社し、最初は親方と呼んでいました。私らとは手の届かない所にいるような感じで、いつまでもおっかない印象が抜けませんでした。
ある時五時に仕事を終えて、親方より先に風呂に入って叱られたこともありますし、また、夜勤の時、夜中に大声で歌を歌っていて叱られたり…。とにかくよく怒られた事が一番印象に残っています。
でも今思えば先代の社長はつくづく偉大な社長であったと思います。
和室次男(業務営業主任)
入社したての頃の事です。夜勤をしているとよく眠くなりました。そんな時、社長はドテラ姿で見廻りに来て”眠いのか、これでも飲んで元気を出せ”とヤカンに酒を入れて持って来てくれました。無性に恩情を感じました。
これは失敗談ですが、入ったその日から機械に付き、その機械から油がこぼれていたんです。”オイ、油がこぼれているぞ”と誰かに言われ、私は”こぼれているのがわかっているんなら自分で処理すればいいじゃないか”と言って後ろを振り向くと社長だった―――。あの時はびっくりしたが、社長も新入社員だとわかっていましたので何も言いませんでした。
●読者の皆様へ

「歯車一筋」小原富蔵が歩んだ道、写真集、動画をご覧頂き誠にありがとうございました。
小原歯車工業株式会社の歴史、創業者である小原富蔵、ふでの歩んだ道をお伝えできましたでしょうか。
「歯車一筋」は、創業者の13回忌(1979年、昭和53年7月)にプロジエクト・オーガン社の住吉氏が制作された著書を、記念誌として二代目社長である小原信治が発行したものです。
また、「写真や動画で見る歴史」は、創業者が写真機(コンタックス・ライカ)、撮影機(8mm)、録音機等の趣味を持ち、多くの記録を残したもので、創業者が撮影した写真をスキャナーで読み取り、動画は35,16,8mmフイルムからビデオ編集したものです。
今回リニューアルしたKHKWebサイトに「KHKの歴史」を開設し、多くの資料を整理することで創業者の偉大さを再認識することができました。
創業者夫妻は、私たち家族や社員に対して愛情豊かに接し、常に現状を克明に記録して将来何をすべきかを明確に分析、記録、計画、実践された経営者であり、また尊敬する父、母でした。
創業者が残した経営に対する多くの資料に書かれている考えは現在でも十分に活かせる内容です。
計算のやり方がそろばんから電卓、そしてパソコンに変わって処理スピードがあがり、情報が多く得られるようになりましたが、社員、仕入先、お客様との関係、経営に対する考え方、社会奉仕等はお手本になるところが沢山ありました。
三世代目、そして将来の四世代目の経営者が創業者の考えや意思を理解し、継続され、小原歯車工業株式会社創業100周年を目指してお客様に更に喜ばれる製品をご提供できる会社であります様に願っております。また、写真・8mm映像で社員旅行の皆様の笑顔がいつまでも続きますよう、お祈りいたします。

平成21年8月 KHK歴史制作担当者